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要するにこれは、欺瞞に溢れた現代(21世紀)に絶望したメガネオヤジのケンが、同じく現代社会に嫌気のさした(と思しき)チャコと一緒に昭和の思い出の街を再現して、日本全国の「大人」たちの精神を懐かしき子供時代に退行させ、終いにはその在りし日に日本まるごと戻ってしまおうと画策するも・・・
「未来を生きたい」と叫ぶ子供の代表であるしんのすけに敗北して(「野望を打ち砕かれる」などと言うより、この表現のほうが適切だと思う)、やっぱり諦めて未来を受け入れることにした、というような話だったと理解しました。
(しかし、この敵役二人の「声」が素晴らしくよかった・・・)
印象的だったのは、このふたり(特にケン(オヤジ)のほう)がその野望に対して終始淡々としていたこと。
「過去の匂い」で精神退行していた野原夫婦が「今の匂い(あまり詳しくは語りたくない・・・)」によって正気に戻ってしまったときもほとんど動揺したそぶりを見せず、野原一家を家に招待してお茶を振舞い、挙句に自身の計画を止めるヒントまで与えて逃がしたり・・・
再現された「昭和の街」の人々がしんのすけの姿に心動かされて正気に戻り、計画が破綻してしまった時さえも、多少の動揺はするもののあっさりそれを受け止めて、自ら命を絶とうとし、
それすらも阻止されて、やっぱり現実社会を生きていくことにしてしまうと言う。
はっきり言って、「やる気あるのか」と問いたい態度でありました。
まぁ、ぶっちゃけそんなにやる気は無かったと思います。
おそらく、「たまたま」過去の時代を再現してそこに留まるための方法を手に入れ、せっかくだからそれを実行に移してみるも、やってる途中でどうも違うような気がしてきてしまい、でも一度始めてしまった以上は自分から止める決心も付かず、自分を止めてくれそうな可能性を持ったしんのすけを泳がせて計画を阻止させたといった感じ。
多分一種の賭けみたいなものだったのでしょう。
とりあえず計画は続行するものの、もししんのすけが自分を止められたら潔くそれに従う、みたいな。
ようするに、その程度の軽い懐旧に日本レベルで振り回されたと。
えらい迷惑ですね。
まぁ、大人連中は束の間の懐かしき幻想に浸れていい思いが出来たから良いでしょうけど。
その大人に捨てられた挙句に拘束されて矯正教育受けさせられかけた子供達は・・・多分、一生もののトラウマになるかと。
しかし、私は「穢れきった現実世界を捨てて、もっと違う心地よい世界に旅立つ」見たいな思想が大好きな社会不適合者の真性ダメ人間なので、二人のやろうとしていたこともさほど悪いこととも思えないし、必死になってそれを否定するような態度もイマイチよく分からないのですが。(ていうか、チンタラしてないでさっさと日本全部洗脳してしまえば、皆をその思想に染めてしまえばなんら問題はなかった気さえする)
問題があったとすれば、やはり「過去に浸って進歩を放棄した」と言う点でしょうか。
理想の世界と言うものは進歩の果てに行き着くものだとは思いますし・・・
(「楽しい時間は終わってしまう、それは次の楽しい事を見つけるために」なんて言葉もありますしね。)
思い出というのはかけがいの無い大切なものではあるけれど、それは「自分が今まで歩んできた証」として大切なのであって、それに捕らわれてはいけない、と言うことでしょうか?
この映画で一番感動したのは、計画を止めるために「思い出の町」を抜け出す場面で、ヒロシが
「懐かしくて気が狂いそうだ」
と涙を流しながら、住人に町の出口を問い詰めるところ。
一般的にはその前の、ヒロシが正気に戻るときの、彼の少年時代からの半生の回想シーンが人気が高いそうですが、個人的にはこっちのほうが。
懐かしき思い出の抗いがたい魅力に負けそうになりながらも、それでも前に進もうと奮闘する姿勢・・・
そして、ケンに
「野原ヒロシ、つまらない人生だったな」
と言われて、
「つまらなくなんか無い。家族のいる幸せ、お前にも分けてやりたいくらいだぜ」
と応える・・・
あぁ、ヒロシ格好いい。
・・・やっぱ前に進まなきゃね。今よりももっと前に。
「未来を生きたい」と叫ぶ子供の代表であるしんのすけに敗北して(「野望を打ち砕かれる」などと言うより、この表現のほうが適切だと思う)、やっぱり諦めて未来を受け入れることにした、というような話だったと理解しました。
(しかし、この敵役二人の「声」が素晴らしくよかった・・・)
印象的だったのは、このふたり(特にケン(オヤジ)のほう)がその野望に対して終始淡々としていたこと。
「過去の匂い」で精神退行していた野原夫婦が「今の匂い(あまり詳しくは語りたくない・・・)」によって正気に戻ってしまったときもほとんど動揺したそぶりを見せず、野原一家を家に招待してお茶を振舞い、挙句に自身の計画を止めるヒントまで与えて逃がしたり・・・
再現された「昭和の街」の人々がしんのすけの姿に心動かされて正気に戻り、計画が破綻してしまった時さえも、多少の動揺はするもののあっさりそれを受け止めて、自ら命を絶とうとし、
それすらも阻止されて、やっぱり現実社会を生きていくことにしてしまうと言う。
はっきり言って、「やる気あるのか」と問いたい態度でありました。
まぁ、ぶっちゃけそんなにやる気は無かったと思います。
おそらく、「たまたま」過去の時代を再現してそこに留まるための方法を手に入れ、せっかくだからそれを実行に移してみるも、やってる途中でどうも違うような気がしてきてしまい、でも一度始めてしまった以上は自分から止める決心も付かず、自分を止めてくれそうな可能性を持ったしんのすけを泳がせて計画を阻止させたといった感じ。
多分一種の賭けみたいなものだったのでしょう。
とりあえず計画は続行するものの、もししんのすけが自分を止められたら潔くそれに従う、みたいな。
ようするに、その程度の軽い懐旧に日本レベルで振り回されたと。
えらい迷惑ですね。
まぁ、大人連中は束の間の懐かしき幻想に浸れていい思いが出来たから良いでしょうけど。
その大人に捨てられた挙句に拘束されて矯正教育受けさせられかけた子供達は・・・多分、一生もののトラウマになるかと。
しかし、私は「穢れきった現実世界を捨てて、もっと違う心地よい世界に旅立つ」見たいな思想が大好きな社会不適合者の真性ダメ人間なので、二人のやろうとしていたこともさほど悪いこととも思えないし、必死になってそれを否定するような態度もイマイチよく分からないのですが。(ていうか、チンタラしてないでさっさと日本全部洗脳してしまえば、皆をその思想に染めてしまえばなんら問題はなかった気さえする)
問題があったとすれば、やはり「過去に浸って進歩を放棄した」と言う点でしょうか。
理想の世界と言うものは進歩の果てに行き着くものだとは思いますし・・・
(「楽しい時間は終わってしまう、それは次の楽しい事を見つけるために」なんて言葉もありますしね。)
思い出というのはかけがいの無い大切なものではあるけれど、それは「自分が今まで歩んできた証」として大切なのであって、それに捕らわれてはいけない、と言うことでしょうか?
この映画で一番感動したのは、計画を止めるために「思い出の町」を抜け出す場面で、ヒロシが
「懐かしくて気が狂いそうだ」
と涙を流しながら、住人に町の出口を問い詰めるところ。
一般的にはその前の、ヒロシが正気に戻るときの、彼の少年時代からの半生の回想シーンが人気が高いそうですが、個人的にはこっちのほうが。
懐かしき思い出の抗いがたい魅力に負けそうになりながらも、それでも前に進もうと奮闘する姿勢・・・
そして、ケンに
「野原ヒロシ、つまらない人生だったな」
と言われて、
「つまらなくなんか無い。家族のいる幸せ、お前にも分けてやりたいくらいだぜ」
と応える・・・
あぁ、ヒロシ格好いい。
・・・やっぱ前に進まなきゃね。今よりももっと前に。
たとえ過去(きのう)を懐かしみ 振り向いても
それは歩いてた足跡があるだけさ
いつか若さを失くしても 心だけは
決して変わらない絆で結ばれてる
愛すること それがどんなことだか
分かりかけてきた
愛のすべて 時の歩み
いつもそばで分かち合える
心の瞳で 君を見つめれば
(合唱曲「心の瞳」より)
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