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今日は、お外で遊んできました。
お昼から三時くらいにかけて、なんか英語のテストを受けていたような記憶がおぼろげにあるのですが、正直あまり深く思い出したくありません。

で、終わったあと髪を切りにに行きました。
久しぶりにさっぱりした感じですが、ちょっと切り過ぎちゃった感も否めない。
まぁ、良いや、これであと半年くらいは切らずに済むでしょう。

その後は、アリプロのCDを買いにゲーマーズへ。
「月光嗜好症」を購入。まだ聞いてませんが、楽しみです。

店内では、上映されていたアニメ版「Fate」をチラッと鑑賞。
「キャストがいまいち」との評価を聞いていたのですが、私が聞いた分には特に違和感は感じませんでした。
まぁ、批判している方々には、それなりの深いこだわりがあるのでしょうが。
アニメとか声優のことはよく分からないです。テレビ見ないし。

しかし、このアニメ、仙台じゃ見られないんですよね・・・
まぁ、元より希望なんか一片も抱いちゃいませんでしたけど。
結構そのことにフラストレーションが溜まってるので、虹裏なんかで
「厨房臭くて痛くて見てらんねーよ」
とか言ってる人を見ると、本の角とかで殴りつけたくなります。
割と強めに。
お前らな、文句あるのは構わんし、批判たれるのも勝手だが、それなら私に代わりに見せろと。
こっちはその「厨臭くて痛いアニメ」が見られなくて、ショック受けてるんだよ。
第一「厨臭い」なんてのは、むかし勘違いしてそういう痛いものにハマった過去にトラウマがあるか、現在進行形で勘違いして、そういうものを見下して悦に浸ってるか、どっちか或いは両方であるだけだろう、と。
じゃぁ私はどうなのかって?
現在進行形で勘違いして、そういう痛いものに今もハマってるに決まってるでしょう!
この道、所詮酔狂さ。痛いのが恐くてヲタクやってられるかってんですよ。
まぁ、一般の人に迷惑かけるのはまた別の話ですけどね。

ともあれ、お次はその足で、駅前の「はんだや」に。
「半田屋」でも「半田家」でもなく、「はんだや」。(ややこしいですが、分かる人だけ分かれ。居るか分からんけど。
きらら寿司となりの「はんだや」が「半田家」になって以来、「はんだや」はかなりご無沙汰だったのですが、今日は思い切って、いままで未開拓だった「駅前店」(夜には閉まるので、今まで行きたくても行けなかったり)に突入。
小汚くて狭い店内、全員おばちゃんの店員さん、納豆臭い空気、味はともかくバカ安いメニュー、更にはラジオの相撲中継と、以前行っていたところより更にレベルの高い、しかし懐かしい空気に感動しつつ、お食事を済ませました。
どんぶりめし、豚汁、チキンカツ、更には煮物の小鉢までつけて、お値段は400円弱!
贅沢をしなければ300円でもお腹いっぱいになれるという素晴らしさ!
(まぁ、自炊には敵いませんが)
はんだやは良いね。仙台が生み出した食文化の極みだよ!

で、その後まだ時間とお金はあったので、折角なのでマンガ喫茶に寄り、「風の谷のナウシカ」マンガ版など読んできました。
(以降、よくわからない葛藤と、ナウシカ及びhollowのちょっとしたネタばれあり)

+ + + + + + + + + +
これは・・・正直、詳しくは語りえない。
「光と闇」「聖と俗」「人と自然」「美と醜」それらの交じり合った果てに示され得るもの。
いろんな思想が交じり合い、想う所は限りなく・・・今現在でも様々な考察や感想が頭の中を飛び交っているのですが、しかしそれは言葉に出来ない、され得ないもの。
真理・深奥とは語りえぬもの・・・禅の奥義は不立文字などと言われますが、恐らくそれにも似て。
人とは何か。神とは何か。「自然」とは何か。世界の示す意思。人の進む未来。何のために生まれてきたのか。何のために生きてゆくのか。どのような道を生きるべきなのか。
言葉にされたこれらのテーマの陳腐さと拙さに悔しさと怒りを覚えつつ、それでも考え続けてはいるのですが・・・
「書物」は「ことば」の影に過ぎない、とソクラテスは言ったと聞きます。
しかし、恐らくその「ことば」もまた、想いの影に過ぎない。
本当に大切なことは、言葉にされ得ない、語り得ないものなのではないか。
形の無いものを無理やり形にして出来上がったものの、何と言う不恰好さか!
求めていたのは、決してそのような不恰好で小難しい論理ではなく、もっと単純で美しい真理。
しかし、人は「論理的でない」ものを考えることは出来ない。
論理など、考えるための道具に過ぎないのに。そんなものに振り回されてしまう。
しかし、その苦しみも、業も、神が人に与え給いしものであるなら・・・(ここでの「神」というのは、宗教的な具体的モチーフではなく、「運命」とかそんな意味だと思ってください。厳密に言うとぜんぜん違うけど。言葉なんかに捕らわれるな!全部ウソだから。)
浄化の光を拒み、醜い世界を、人々を愛したナウシカのように。
或いは関連して思い出されるのは、
キノの旅の「世界は醜い、ゆえに美しい」
hollowのアンリマユの境地「この世全てを恨み、憎しみ抜いた果てに、その醜い全てを憎しみつつも許容する」
清濁併せ呑む、と言うその姿勢。
それについて、私は考える。
正しいとか、正しくないとか、そういう話じゃなく・・・
何度も言いますが、形になったもの全ては不完全な影に過ぎないのですから。
葛藤し、悩み苦しみ、考えてゆく・・・今はそれしか出来ない。

なんて綺麗に終わらせるのも馬鹿馬鹿しいと言うか、つまんないんだよ、もう!
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無題
おはようございます^^いつも楽しく拝見させていただいております。私も最近ブログを立ちあげたので、ちょっと変わったブログですが、時間がありましたら見てあげてください。笑
MOKK
URL 2006/01/16(Mon) 編集
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